インタビュー

「CGが好きじゃないから生き残れてる」糸島のCGディレクターが超有名アーティストたちに求められるわけ(後編)


糸島市と福岡市に拠点を置くCG制作会社「ランハンシャ」代表・下田栄一さんのインタビュー、後編をお届けします!

前編はこちら:https://itofessional.com/2021/11/26/interview-2/

下田栄一
1978年、福岡県福岡市生まれ。2003年株式会社VSQに入社。2008年に株式会社風車を設立し、2013年に株式会社ランハンシャを立ち上げ、福岡市から糸島市に転居。ももクロのMVやJUJUのライブツアーのOP映像、SUSTARのCMなど、数々の企業やアーティストの映像制作に携わる。地域活性化を目指す「いとしまちカンパニー」メンバーのひとりで、野外映画祭「いとシネマ」やコミュニティスペース「みんなの」の発起人。2020年から「ドライブインシアター糸島フォレストナイトドライブ」を手がけた。

プレーヤーが楽しすぎて社長業に専念できない

――「ランハンシャ」には今、何人ぐらい在籍しているんですか?

17人ですね。

――めっちゃ多い!担当とかはあるんですか?

 分業をあまりしていなくて、1人で何でもやらなきゃいけない感じ。経理のおばちゃん以外は全員映像は作っていて、ソフトを触れない人はいない。ただ、それって10人ぐらいまでの会社だったらいいんだけど、17人になってくると、まとめる人とか、お金のことだけやる人とかがほんとは必要で。ましてや、その人数だと、自分は社長業を本当はやったほうがよいのだけど、自分自身プレーヤーとしてバリバリ仕事してるから、なかなか次に行けないのが課題かなと。プレーヤーが最高に楽しいんだけどね。

――下田さんにきた依頼を、他の人がやっている感じ?

もちろん他にもディレクターはいるけど、僕もメインCGディレクターをして、みんなに作業をしてもらって、チェックして、集めてみたいな感じで。たとえば花粉を表現するCGコンテだったら、花粉が動きについてきてないとか、花粉の量があんまりよくないとか、監督から「まばら」って言われているけど、まばらがちゃんとできているか、とかあるじゃないですか。「ここ、こうじゃねえ?」って赤丸をつけて説明して「この素材があるといいよ」とか、そのまま任せたり、僕が一部は作ったりする感じですかね。

――スタッフはホームページとかで採用するんですか?

今はしていなくて、専門学校の先生の紹介とか、スタッフの後輩だったりとか。来たら、最近は一応、「3か月ぐらい一回やってみる?」って感じだけど、1年ぐらい一緒に仕事してみないと、その人ができるのかできないのかとか、性格がわからなくて、1年ぐらいかける。もちろん卒業制作とかは見るけど。

――卒業制作ではわからないものですか?

卒業制作がいい人もやってみたらよくなかったり、逆にめちゃめちゃだったけど、1~2年するとすごいできるようになったりとかがあって。初めの頃は飛び込みで来たやつを採用したりしていて。 

CG会社は変わった人の集まり

――いきなり会社に?

ある日、「今、福岡に来ているので、面接いいですか」っていきなり会社に来たやつがいたんだよ。「誰おまえ」ってなったけど、「いいよ。履歴書とかあるの?」ってきいたら、「うーん。今からデータを送ります」ってその場でパッと送ってきて。履歴書を見たら志望に全然違う会社名が書いてあって、「おまえ、会社名が違くない?」みたいな。「おまえ、その会社のついでに来ただろう」みたいなノリだった。本当にとぼけたやつだなと思ったけど、とりあえず採用してみたら、2年ぐらいでめちゃくちゃ伸びて。

――エースみたいになってるってことですか。

いつかエースにまで伸びてほしいなとは思う。 

――アドバイスとか、教え方とかあるんですか?

あんまりちゃんと教えてないと思う。それぞれが自分でがんばってる感じが強い。でも、3年ぐらいすると、大体できるようになる。

――「自分で考えて」って感じですか?

みんなそれぞれ必死なので、日々はそれぞれあんまり教える暇もなく。最近、ようやく技術質問スレッドというのを作ったところ。でも、「勉強会しよう」って過去に何度もあったんだけど、なかなか続かない。

――開催されなくなるってことですか。

 そう。スタッフの中で「そういうのがしたい」って言いだしてやりだすんだけど、結局続かない感じ。ましてや人によっては「自分が苦労してゲットした方法を教えたくない」みたいな考え方の人もいたりする。CG会社って自分筆頭にかもだけど、変わった人の集まりだったりするので(笑)

表現は記憶の断片の積み重ね

――子どものころ好きだったものってなんですか?

食べることとマンガ。子どもの頃もずっと小デブで、丸々していて。

――健康的ですね。

子どもの頃、何をしてたのか本当に記憶がない。ちょっとしたアクシデントとか、パーツは覚えてるんですよ。一回、サワガニを捕まえに行って、ちょっと坂道に疲れて、山手のほうに行って座ったんですよね。地面にあぐらをかいて座ったら、あぐらの中心にうんこがあって。その記憶が本当に強烈で、小学校一番の記憶。 どうにもならない記憶だけど、セーフって思ったですね。全然セーフじゃないけど。

――小学生男子って感じが。 

あとは友達のうちに行ったら『はだしのゲン』が置いてあって、何気に見た『はだしのゲン』があまりにも強くて、帰りにゲロを吐いたりとか。ちょっと衝撃を受けてしまって、あの描写力に。強烈なやつだけを覚えています。

――今の仕事につながっているのってありますか?

全部つながってますね。きっとうんこも(笑)自分、表現って記憶の断片の積み重ねだと思っているんです。家が飲食店をしていて、小さいとき色んな客と並んでカウンターで飯食って話した記憶とか、大学の頃、海外の浜辺でぼーっと「俺何してるんだろう」みたいなポエムを書いてた記憶とか。

僕の場合、大学のとき親が奨学金を「使えば?」って言ってくれてたから、バイト代含めて毎月収入が10万ぐらいあって、それを全部写真と旅行費に回して、海外をいっぱい回っていた。たとえば南フランスの海岸は石で構成されていて光が違うんですけど、断片的にその綺麗さとかを覚えていて。今の仕事はそこの積み重ねだから、そんな経験の積み重ねで食っていけてる気がする。今振り返ると、だいぶお金つかった旅の意味があったのかもしれないと思うようになった。

さっき言った子どもの頃の強烈な記憶とかも、日常ではほとんど覚えてないんだけど、それがけっこう大切だな、それが提供できたら意義はあるなと思っていて。屋外映画の「いとシネマ」も、今年の8月までやってた、「フォレストナイトドライブ」というドライブインシアターも、僕自身は子どもたちに向けて「記憶の断片になれたなら」と思ってやってた。「記憶の断片をつくる」そこがけっこう、糸島での活動のベースだったりする。

――下田さんの強みって何だと思いますか?

いまだにやれている理由って、自分、実はもともとCGあんまり好きじゃないからなのかもなと思う。いきなりCGやり始めた人って基礎が抜けている人が多くて、技術論ももちろん要るんだけど、感覚もけっこう大事で。僕は入り口がアナログから入ったから、その辺をベースとして、どうCGを設計していくかみたいなところが強みだったりする気がする。映像をやっている監督って、アナログ感覚が強い人のほうが多いから、何を表現したいのか自分の中で理解して、アウトプットすることが大事だったりする。仕事上の経験値もあるけど、学生時代からつちかった体験や記憶の断片の積み重ねで、そこのすり合わせができるから仕事できてる気がしてる。

いつも出る映画があって、『マイノリティ・リポート』と『ブレードランナー』。 いつも古くね?と思ってはいるけど、「未来の表現といえば」で出続けてきた。でも、もう世代が変わってきてる感じはするので、これから出てくるサンプルへの理解についていけるのかどうかが、自分の選手生命なんだろうなぁとか少し思う。

80%まで現場で作る…出し惜しまない差別化戦略

――福岡で仕事をしていて、東京に会社を移そうかなと思ったことはないですか?

今のところ一度もない。糸島に来ているぐらいだから、そもそもあんまり都会志向がなくて。自分は思いっきり都会で育ってるので、もはや都会に興味がないんでしょうね。今はテレワークになったおかげで、どこでも働けるじゃないですか。ずっと僕、地場でやれているから、必要性がない。仕事的に必要になっても、自分が住むことは今後もないだろうなと思う。何かの縁だったりタイミングで、支社を作るとかはあると思うけど。

――そこまで行きたくない?

行きたくないですよね、都会。年とっていったら逆の発想になって、60ぐらいで急に「自然飽きた。東京だ!」って思うことが、ゼロじゃないかなとは思うんだけど。海外は住んだことないので、どこかのタイミングでしばらく住んでみようとは思ってるけど。

――仕事相手って、福岡と東京だとどのぐらいの割合なんですか?

売り上げでいくとほぼ関東圏ですね。関西もちょこっとあるけど、根本、どの分野もそうかもだけど、基本はビジネスって東京が中心ですよね。それがコロナで逆にうちみたいな地方の会社はやりやすくなった。うちはそもそも距離があるのがネックだったので、打ち合わせがみんなオンラインになって、元々地方にあるうちにとっては助かる感じになって。

――今までけっこう、東京に打ち合わせで行ったりしてたんですか?

そう。やっぱり「顔合わせに行けません」ってなると、基本的に次はないじゃないですか。自分はけっこう現場主義なので、その場で作るんですよ。たとえば、撮影の立ち会いのとき、僕自身はマットペイントが得意で、マットペイントって要するに背景画はグリーンバックで撮るけど、その後ろが森とか滝の風景だと、そういうのを写真や映像のレタッチで作る。カメラは動くけど必要に応じて3D化すればいいから、基本的にはフォトコラージュに近くて、その場でシャッターストックとかの素材集とかからぶわーっと動画を見て、80%ぐらい現場で作る。現場で80点ぐらいまではOKもらう感じを目指して作業することが多い。

――すごい。それってやり方としては一般的なんですか?

全然一般的じゃない。だって、普通は「もうできたね」ってなっちゃってお金とれないから、出し惜しむよね。「いや、それをできるようになるのに年月かかっとるんですわ」みたいな、デザイナーあるあるの感じかもですね。そこで差別化しなきゃと思って、出し惜しみしないのをずっとやっていたんですよね。現場でつくるのって、他の人と一体感の中でつくれるから、そこがそもそも好きではあるのかなと思う。

東京は天才みたいな人もいっぱいいるから、そこより単価は安くて、距離はあるけど、いるときはフランクで密にやれるとか。あとは東京に出ているときは、すごい糸島の話だったり、「田舎、いいっすよ」みたいな話をよくする。福岡にいるときは全国で流れる仕事やってる信頼性みたいなので仕事をとるみたいな(笑) 逆ブランディング的なことかもですね。

――使い分けがすごい(笑)

こっちでは最近やったメジャー仕事とか言うと、けっこう信頼を得るのね。逆に仕事先の人が「福岡いいですね。遊びに行きます」って来て、いろいろ案内して、そんな感じで仕事がきたりとかもある。

糸島の自然派保育園で感じた衝撃

――福岡市から糸島に引っ越した理由というのは?

子どもがアトピーだったから食生活とかを考えて、嫁が移住をいいはじめて。でも糸島はおしゃれなイメージも付き始めていたから、自分にはなんか恥ずかしい感じもするなと思って、篠栗とか那珂川とか、違う場所を考えていて。太宰府もいいかなと思ったんだけど、結局糸島ってなっちゃった。やっぱりほどよいよさがある糸島になりました。

――糸島、ちょうどいいですよね。 

大学の頃に糸島に実家がある時期があって、今住んでいるあたりの集落も親戚などのご縁があり、ちょっと身近な感じはあったんですよね。  

――糸島に引っ越してから、仕事のやり方とかに影響はありましたか?

もちろんありました。自分、糸島でのスタートが子供のはいった「わくわく子どもえん」やったんですよね。超自然派な感じの保育園で、そしたらそこで出会うのが、自由そうな大人が多くて、子どもを夕方に迎えに行くと、キラキラしながら父ちゃんたちと釣りとかしとるんよね。いつも仕事ばかりで忙しそうにしてる自分には「何だ、ここ?」と思って。親の仕事どころか、苗字すら全然わからない。僕は糸島で生活しても結局福岡市に通勤しているから、その保育園にいる大人のさまざまな生き方が、社会思考になってた自分にはまあまあなカルチャーショックだった。

――なるほど。  

幸せの尺度って何だみたいなところで考えたときに、そこは幸せ上手な人が多いように感じた。ライフスタイルとか自然とか、幸せのベクトルはだいたい同じ方向性に感じて、居心地がよかった。

その後、「いと会」(※コロナ前に福島さんが月1で開催していた糸島移住者中心の飲み会)で福島さんたちと出会って。糸島で名刺交換とかする場が初めてで、また違う人たちと出会えたのが新鮮だった。保育園で出会った大人たちとベクトルは変わらないのだけど、それぞれの社会的背景も交えつつ、何か新しく物事をつくりだすような人たちが多かった。

――福島さん、後原さんと3人で「いとしまちカンパニー」を立ち上げたんですよね。

その前に、「いとしまちカンパニー」立ち上げのきっかけになった、「いとシネマ」という野外映画祭を福島さんたちとやったのが大きくて。仕事ばっかりしてきたから社会活動というものを初めてやって、すごい楽しくて。今まではCGという特殊技術や広告業界という世界しか知らなかったので、ああいう人たちとコラボすると今までの積み重ねも違うし、お互いリスペクトすることも多いんですよね。目的が僕の場合は「子どもたちに記憶の断片になれるような一瞬を」みたいなところだったんですけど、それからドはまりして、気づいたら「いとしまちカンパニー」をつくってて。そこで脳みその使い方が全く変わって。仕事に対してもお客さんと会話するときも、アプローチが変わって、技術バカの自分が、多少なりとも視野が広がったと思う。

――具体的にはどう変わったんですか?

たとえば、プロジェクションマッピングって田舎でもやったりするから、そこで生活している役所の人たちが日々どういうことを考えているか、イベントを地方でするってどういうことなのか、お金の感覚とかもわかってきて。何より、ビジネスでも本質に近い話をしようとおもうようになった。マッピングの仕事がきても、自分、あんまり勧めないですもんね。ドライブインシアターとかの連絡けっこうきたけど、根本的に電話の初めで「たぶん、やめたほうがいいと思います。まず儲からない。金が絶対に成り立たん。何のためにやりたいんですか」って話を聞いて。「マッピングは費用対効果が悪い」って、基本的に誰にでも言っている。相手の事情というよりは、何のためにやりたいのか、できるだけ「本質から入らないと」みたいなのを話すようになったんですよね。もちろん相手の状況にもよって合わせていくけど。

それは糸島での出会いや社会活動によって、違う風景が見えるようになったからなんですよね。とはいえ、コロナもあって、ここ数年は本業集中の日々で、全然糸島活動はほかの2人にまかせっぱなしで、何にもできてない感じではありますが。

VRと違う形の未来をつくりたい

――今後、していきたい活動はなんですか?

今、僕は夜のコンテンツを提供する、「ナイトコンテンツディレクター」っていう肩書を勝手につくっていて。地方の夜にプロジェクションマッピングだったり、映画だったり、ときにはスナック(笑)だったりで夜の町おこしをしたい。どこも地方はナイトコンテンツほしいんじゃないかなとか思って。もうひとつは、今までのイメージとは違うような、何か手触りがある未来をつくることに興味がある。それが何なのかは現在模索中だけど。

自分仕事はしてるけど、VRがあまり好きじゃなくて。ヘッドセットがパーソナルすぎて未来を感じにくい。空間に包まれるというのはよいのだけど、すごくパーソナルだなと思って。みんな『マイノリティ・リポート』とか『スター・ウォーズ』が未来と思っていて、それはそれでいいんだけど、何か違う、人に寄り添った手触りのある未来とかテクノロジーがつくれないかなみたいな。共感だったり、シェアしながら人が中心にあるテクノロジー。何だろうとは思っているけど、なんか未来を探ってみたい。そのヒントが糸島で幸せ上手な生活をしている人たちの中にあるなと思う。 

 ――これからの糸島についてどう思いますか?

今、糸島にいろんな面白い人がどんどん引き寄せられてる。強烈な大人がいっぱいいるし、次々できるオルタナティブスクール含め、新しいカルチャーがうまれるのじゃないかなと思う。それが、移住者と地元の方との融合で加速度的に面白くなるのじゃないかなと思ってる。

糸島って、20~30年後ぐらいにここで育った子供たちが外に出てまた戻ってきたときとかに、福岡市とちょっと違うベクトルで世界的なラインにいくんだと思う。自然と人と働くということのライフスタイルが調和された、カルチャーのある街というか。今が創世期かもしれないと思っていて、大人が集まるコミュニケーションの中心はやっぱり前原なんですね。脈々とつくられた飲み二ケーションの文化が息づいてる。商店街も今はシャッター街なのだけど、時間の問題だと思っていて、僕もそこに事務所をつくった。世界的な糸島になっていく過程の初期なんじゃないかなと思っていて、一番面白い時期かもなと。いとしまちカンパニーがつくった「糸かお」(※前原にある「糸島のかおがみえる本屋さん」)の入ってる新しい本屋スペースだったり、「みんなの」とかも発展していくと思う。今後、さらに進化していく糸島が楽しみだなと思っています。

――今日はありがとうございました!

株式会社ランハンシャhttp://run-hun.co.jp

ドライブインシアター糸島フォレストナイトドライブの映像
ワールド北青山ビルでのプロジェクションマッピングの映像

編集後記

ということで、「ランハンシャ」代表・下田さんのインタビューをお届けしました!
普段のインタビューでは読みやすくするためにどんどん文字を削っていくのですが、下田さんは余談が面白すぎて「ここ削った方がすっきりするかな…でも面白いしな…」と一行ごとに悩み、完成までにめちゃくちゃ時間がかかりました(笑)

そして記事修正の際に送っていただいた追加エピソードがさらに濃くて、「まだ濃い話が残っているとは…さすがクリエイターや!!」と興奮しました。

プロのクリエイターの思考に触れられて楽しかったし、すごく勉強になるインタビューでした。下田さん、本当にありがとうございました!!

写真:Chinamu Sashikata

文:山部沙織 



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