こんにちは、「イトフェッショナル」ライターの山部です!
今回は、糸島市と福岡市に拠点を置くCG制作会社「ランハンシャ」代表・下田栄一さんのインタビューをお届けします。
私と下田さんの出会いは、前原にあるコミュニティスペース「みんなの」の壁塗りワークショップ。下田さんのスマホがズボンのポケットから白いペンキの中に吸い込まれていくのを見たのが第一印象でした。その夜、Facebookで下田さんがmillennium paradeのMVのCGを作っているという投稿を発見。当時King Gnuにハマっていた私は「糸島にこんなすごい人がいるんだ!!」と衝撃を受けます(※millennium paradeはKing Gnu常田さん主催のバンド)。そのときから「いつかインタビューさせてもらいたいなあ」と思っており、今回ようやく実現できました!^^
大変長いのですが、下田さんのぼやき漫談みたいな語り口がめちゃくちゃ面白くカットするのが惜しかったので、前編・後編の大長編でお送りいたします!
下田栄一
1978年、福岡県福岡市生まれ。2003年株式会社VSQに入社。2008年に株式会社風車を設立し、2013年に株式会社ランハンシャを立ち上げ、福岡市から糸島市に転居。ももクロのMVやJUJUのライブツアーのOP映像、SUSTARのCMなど、数々の企業やアーティストの映像制作に携わる。地域活性化を目指す「いとしまちカンパニー」メンバーのひとりで、野外映画祭「いとシネマ」やコミュニティスペース「みんなの」の発起人。2020年から「ドライブインシアター糸島、フォレストナイトドライブ」を手がけた。
プロジェクションマッピングを西日本で最初に始めた
――まずは、今の仕事内容を教えてください。
基本的にはCGの会社をやってます。僕がメインとしているのはCMで、会社としてはwebCMやライブ映像、VR、ミュージッククリップ、映画とか。もうひとつがプロジェクションマッピングといって、プロジェクターで建物に映像を投影したりするもの。それを西日本ではおそらく、僕が一番初めにやっていて。
――すごい!
ここ3、4年ぐらいは毎年、クリスマスにアパレルメーカーのワールドさん所有の表参道のビルでマッピングをやったりしてますね。
――なるほど。どの仕事が一番好きとかってあるんですか?
マッピングとか、そっち系ですね。CMとかミュージッククリップとかはもちろん楽しいですが、長くやっているのもあり、他のこともやり始めたいなとか思うようになっていて。今はマッピングだったりの、企画からやってお客の顔が直接見れるものが個人的には楽しいですね。
――もうどれぐらいされているんですか?
仕事を始めたのが25歳とかだから、16~17年ぐらい。僕、スタートが遅くて。
――どういう経緯でCGをやることになったんですか?
大学で写真部に入ったのがきっかけですね。建築がもともと好きで、橋を造ったりしたくて、福大の工学部の土木工学科に入って。そのころ『電波少年』がはやってて海外でバックパッカーもやりたかったし、「土木だと青年海外協力隊とかにも行けるんじゃねえ?」みたいな気持ちもあって。ただ、別に学校に入っても、あんまり勉強はオモロないじゃないですか。それで、部活で写真をやり始めて。自分、それまでは根暗な少年だったので、ほとんどずっと帰宅部人生だったんですけど。
――意外!そうなんですね。
中1のときに『SLAM DUNK』に憧れてバスケ部に入ったけど、全然合わなくて。僕らの頃って吐くまでやるのが美徳の頃だから、うさぎ跳びとか余裕でやっていて、本当きつくて。その後転校したときにバスケは辞めて、それから永遠の帰宅部みたいな感じ。帰って、ジメっとマンガを読む日々。
高校は東福岡で男1000人だったから、青春とか1ミリもなく。自分、高校3年間で女子と話した時間、合計10分ぐらい(笑) たぶん、東福岡ってイケてるイメージがあると思うんだけど、1000人中の数パーセントぐらいかもですね。自分みたいに青春のイメージとはほど遠い人のほうが多かったんじゃないかな。そんな根暗ともいえる自分は、数パーセントのクラスの輝かしい男子たちを「すごいな」って見ながら、釣りの話とかしてた。
――平和な話を(笑)
根暗高校生だった自分としては、もういちど高校はやってみたい気がします。それで大学に入って、「これは大学では頑張らねばならない」と思ったんだけど、土木工学科120人の中で女子が数パーセントしかいないから、話せるはずがない。そこまでの経験値からいくと。土木の中でもキラキラ男子だけが話をして、それを遠巻きに見てるのは変わらなかった。
――なるほど。そこでも壁が。
頑張ってキラキラ系キャンプサークルに入ってみたんだけど、全くなじめなくて。
――けっこうトライはしているんですね(笑)
憧れで入ってみたけどついていけるはずがなく、流れ着いたのが写真部だった。「居心地いいな、ここ」みたいな。誰も何も強要しない。
写真にドハマり…印画紙代につぎ込む大学生活
――確かに、そんなイメージです。
写真って今みんなやってるけど、昔はどちらかというとオタクっぽいイメージが強かったと思う。あるとき写真界にHIROMIXというカメラマンが出てきて、日常や女の子をスナップで撮り始めて。それで賞をとって、写真のイメージが従来のイメージと少し変わりはじめたんじゃないかな。オタクとイメージされてる人と、ファッション系なイメージのスナップ撮っている人と、ちょうどミクスチャーされている時代で、個人的には、逆に多様性があって最高だった。自分もオタクで居心地いいし、でも、おしゃれな先輩いて憧れるしみたいな。
――面白いですね。
根本がオタクな自分なので、けっこう写真にハマっちゃって。その部活って毎年何人かプロを出すみたいな、写真をかなり本気でやっている人もいる部活だったから。気づいたら自分も本気でやってた。印画紙代にいくら使ったかわからないくらい。
――本格的な部活だったんですね。
オタクっていってるけど、技術的にめちゃ詳しい人とかいて、印画紙がどうとか、焼き方がどうとか、振り方がこうやったらいいよとか、現像で独自の八の字を書く人とか、色んなやり方があって。すごく勉強になった。写真家になれるんじゃないかと勘違いするくらい。部室って夏場はすごい暗室が暑いんだけど、真っ暗な空間で女子と2人で印画紙を焼くとかが、すごい青春の感じがあるんですよね。暗室に入ると外でガヤガヤしていても、絶対コンコンしないと開けられないから、いろんな青春があったんだろうな、あの中では。
――ドラマが。いいですね。
そう、楽しかった。で、途中から「もう土木はいいかな。スタジオの写真家とかカメラマンになりたいな」と思ってそれを親に話したら、「あんた、ちゃんと写真の勉強してないから、学校に行く?」とか言うから、「マジか?まだ就職せんでいいのか、やったね」って。全然就職活動する気もなくって、卒業式に私服で行ったの自分ひとりだけだったので、他の人とズレてるのに気づいてないというか、永遠の学生気分だったのかもと思う。
「アナログ感覚でCGをやってみよう」新しい発想が転機に
――それで大学を卒業して、東京の学校に。
バンタンデザイン研究所っていう東京の専門学校に入って。でも、写真は独学と、写真部でけっこう教えてくれたから、自分的にはある程度できる気になってて、写真だけじゃない映像に興味がひろがっていった。後半ぐらいからは8ミリフィルムを回し始めて。
――そこで動画のほうに。
自分、CG・3Dとかデジタルってそもそもそんなに好きじゃなくて、アナログで感じられるような手触りとか、そっちのほうが基本的には好きなんですね。だから、「アナログの感覚でCGをやったら目立てるんじゃないかな」と淡いことを考えて。それでCGの学校に行ったら全く友達ができなくて、今思うと浮いてたと思う。
でも、そのときの先生が1人、専門のCG学校なのに、ロシア映画とか実験映像をいっぱい見せてくれる人で、それが意外と美大出てない自分にはためになった。みんな寝てたけど、タルコフスキーの長い1カット映像とか授業で見たのを覚えてる。CGの学校って、卒業するときに3分ぐらいのCGアニメーションとかを作るんだけど、なぜか自分、8ミリフィルムの映画を作っていた。CGも入れ込んではいるけど、8mmと写真とCGの組み合わせ。ドキュメンタリータッチで30分ぐらい日々を描くみたいなのを卒業制作で並べていて、自分だけ全然毛色が違うし、こっちでも1人完全に浮いてたのかもしれない。
――就活はしてたんですか?
就活はしたんだけど、「映画監督になりたい」とか、アーティストみたいな気分になっているから、そのときは全く就職できなかった。しかも僕の頃、CGは出始めた頃だから人気職種で、広告業界がそもそも狭き門やったんですよ。そこで勘違いしているやつだから、どこにも入れない。それで就職できなくて、結局、バイトをしとったんですよね。とりあえず生活しなきゃいけないから。
――どんなバイトをしてたんですか?
ホテルを紹介するウェブサイトの撮影のバイト。「社長・自分・終わり」みたいな会社やった。社長というか、自営のおじさんの家に毎日行ってホームページを作らされて、「写真がいろいろ要るから撮ってきて」って、韓国に1人で1か月ぐらい行ったりとか。初めにそこに入ったときは自分以外は女子で「いいな」と思ってやっていたら、気付いたら自分しかいなくなっていて、「なんでおっさんと毎日、2人で過ごさなきゃならんのか」と思いながら悶々と日々がすぎていった。おじさんのお見合い写真撮らされたりとか。でも今思うとすごくいいおじさんではあって、感謝してる。
――バイトの内容がちょっと常人と違うんですね。
その社長に「おまえ、香港に行って写真を撮ってきてよ」って言われて香港に行って、休みの日にぽーっとしとったら女の子に話しかけられて、ほいほい付いていったら、えらいことになって。
――えらいこと?
完全にバカな若い日本人男性ですねー。気付いたらだまされてた。
――何か飲まされたとか?
いや、飲まされてはないんだけど、なんか色々展開があって、カードゲームしてたらスポットライトの中で金歯のザッツマフィアみたいな人とか出てきて、最後は銃とか出てきて焦った。映画の世界かよみたいな感じ。でも結局はうまい具合にだまされとるんだよね。今、思うとね。それで親に金銭的に迷惑かける始末。ほんと最低ですね。
――よくわからないけど、けっこうな出来事が起きてますね。
その頃の自分にはすごい大変な出来事で、年齢も25ぐらいだから、親もさすがに「おまえ、もうそろそろ福岡帰ってこいや」って強制送還。母の実家の稼業である不動産に入れって言われて、もうしょうがない、金も返さないかんから「わかった」って帰ったら、なぜか断られるという。「入れんやん」って、とりあえずまたバイト。
入社初日にいきなりCGディレクターに
――また濃いバイトなのでは…
縁があって、ブラジル音楽好きな人が代表の映像の会社をお手伝いをしてた。その人、平日は映像の仕事をしていて、土日はブラジル音楽のライブをするから、それも撮りに行かされていて。映像は、若干あやしい大会などの撮影編集。東京でもおじさんと2人だったけど、帰ってもそんな感じで、福岡戻っても悶々とする日々。そのおかげでブラジル音楽は大好きになったけど。
――怪しい大会って何ですか?(笑)
詳しくは言えないんだけど、とにかく怪しい大会だった。大会の最後は頑張った人が壇上に出て、涙流しながら、「お金じゃありません~!!」ってゲットしたお金を書いたプラカードを手に持って叫んでて、思いっきり「お金だろー」って心の中で叫んだね。そんな日々を過ごしてたら、たまたまテレビ西日本の子会社のVSQって会社に親が取材される機会があって、親に「夜、飯食うから来い」って言われて、行ったらカメラマンとかがみんないて。親がもう見かねて、「息子を何とか」みたいに頼んだんでしょう。
それで「遊びに来る?」って言われてVSQに行って。VSQのCG部はその当時、世界的な賞をとっているCG分野のすごい人がいて、CGを全国区に引き上げていて。ちょうどその人が辞めたタイミングで「来る?」って言われて、VSQに入社させてもらったみたいな。
――すごい流れですね。
基本的にずっとフラフラしていてどうしようもない感じだったんだけど、拾ってもらって入ったところが、いきなり福岡なのに全国区のCGをやる会社だった。だけど、入ったらCG部のスタッフが入れ替わっていて、入った日に「ここをよろしく」ってプレステのゲームのCMの絵コンテを渡されて。「マジ? アシスタントとかでスタートじゃないの?」と思ったけど、先方との電話も全ていきなり渡されて。入った日からいきなりCGディレクターみたいな感じで、それがすごいよかった。そのときはハゲそうになったけど、いきなり渡されたら、がんばるしかないもんね。そのときの上司はある意味、人の能力を最大限以上までだせる能力に長けてたのだと思う。よく言うとだけど。
小遣い1日100円を7年間続けたプロダクション時代
――VSQに入ってから、今のランハンシャ立ち上げはどういう経緯で?
VSQに入って、いきなりやらせてもらえて、初めはものすごいプレッシャーやったんですけど、そこでノウハウはすごい学べたんですよね。西日本最大のプロダクションだし。ただ、妻が専業主婦というのもあり、この先に家族を養えるのか、その時点では不安があった。仕事はいっぱいあって、そんなに給料が欲しいわけじゃなかったんですけど、思ったより早く結婚しちゃって、新卒でもなく入って年月もそんなにたってない自分の給料のみで家計をやろうとしたら、自分の小遣いが月3000円になったんですよ。当時、映像業界はなかなか厳しい世界でして。
――やばっ。
1日100円ね。ジュースも飲めない。でも、月3000円の小遣いを7年間続けました。もはや何かの修行ですね。今思うと、小遣い3000円がお金的な原動力としては大きかった。何にも買えない。
――ごはんは全部お弁当ですか?
お弁当。基本時代もあって、ほぼ会社にいてひたすらCG作ってる生活だったから、食事も会社で食べさせてもらうことが多かった。VSQはすごいいい会社で今でも好きなんですけど、自分の展望としては、数年で独立したいなと考えてた。もともと性分が会社員に合わないのかも。でも石の上にも三年って話があって、「3年か5年ぐらいはやらなね」と思ったから、5年続けた。その間、自分を売り込みたいなと自分の携帯を意識的に使ったり、顧客に個人をアピールできるようにと思ってた。
――なるほど。
個人で指名されるようにと意識しながら客つけをして、独立を視野に準備をしてはいました。3年と5年って見える風景が変わるというのは確かにそうだなと思って。それで、そのときのチーフに「自分、辞めようと思うんですけど、一緒にやりませんか?」って誘って、そのときもう1人同期のスタッフがいたから「3人でやろうや」って、それで立ち上げたんです。チーフが金銭的なところをやってくれて。自分、月3000円だし、お金は全然もってなかったから。
――3000円では立ち上げられない(笑)
お金の面は全部やってもらって、立ち上げの面と営業だったり、ホームページ作ったり、ブワーッとやって、一緒に立ち上げたのが風車という前会社。結局風車も5年ぐらいいた。「プロジェクションマッピングをやりたい」って言ったらやらせてくれる会社で、楽しくやってた。ただ、「新しいことをしたい」って言っても、みんな協力はしてくれるけど、1人だけテンションが高くてピエロっぽくて恥ずかしくなって、それで辞めたんです。
自分は新しいことが好きなので勝手にやっていくんだけど、スタッフがついて来れるかというと難しい部分もあったのかなと。自分で0から立ち上げた会社であれば、引っ張っていってスタッフがついてこなくても、納得がいくのかもなとか思いました。最後は小遣いが10000円までアップしてました。1日333円。ジュースが買える!!(笑)
――その会社はずっと3人でやっていたんですか?
最後はまあまあ増えたんですけどね、10人ぐらい。今も風車は元気にまわっています。結局は一度自分でちゃんとイチから全部やってみたかったのだと思う。それで立ち上げたのが「ランハンシャ」です。
<後編につづく>
https://itofessional.com/2021/11/26/interview-3/