インタビュー

「初個展で600人も来場!?」糸島で大注目の風景画家に直撃してわかった人気の理由(前編)

こんにちは、「イトフェッショナル」ライターの山部です!

みなさんは、宮田ちひろさんという女性をご存じですか?

印象派に影響を受け独学で糸島の風景を描き始め、今や福岡の大手百貨店で個展を開いたり、描いた絵が農協のラッピングトラックになって全国を走っていたりと、糸島で大活躍している画家なんです。

そんなちひろさん、実は、異色の経歴の持ち主。短大を卒業し、10年間福祉のお仕事をされ、本格的にキャンバスに絵を描き始めたのは2014年。

だけど、画家になって初めて開いた糸島での個展には600人が来場。同業者にも「なんで画家になったばかりでそんなにうまくいくの?」と不思議がられるそう。

「特別な営業活動をしているわけではない」というちひろさん。お話を聞いていくうちに、その答えが見えてきました……

宮田ちひろ
1979年、福岡市生まれ。中学2年の終わりに糸島に転居、高校卒業まで糸島で過ごす。東京の短大を卒業後、漫画家を目指して2003年まで東京に居住。その後、糸島に戻り福祉施設で働き始め、2006年に小規模作業所の所長に。2013年に女性の人物画『ほほえみ』で第14回日美展佳作受賞。2015年、第61回糸島市美術工芸展市長賞受賞。2016年2月、8月、2017年10月に伊都郷土美術館で個展『糸島の光』開催。2018年から糸島の古民家レストラン「古材の森」で毎年個展を開催。
https://ateliercwebsite.wixsite.com/atelier-c

ちひろさんの絵が常設されているギャラリー「artistation itoshima



漫画家を目指した東京時代

――今回お話を伺いたいと思ったきっかけは、ちひろさんの経歴を知ったからもあるんです。画家って、美大を出て、公募展に出して、賞をとって画壇で認められて……みたいな王道ルートがあるじゃないですか。それとは全然違うのが面白いなと思って。

そうですか?

――実は私も高校のとき美術部で絵を描いてて、画家になりたいって思ってたんです。けど、有名な美大出の顧問の先生が「画家で食べて行けるのは、美大でも一握り」みたいなことを言ってて、諦めて普通の大学に行った経緯もあったりして。

私の場合は、子どものころから毎日絵を描いてはいたけど、「画家になりたい」とは一度も思ったことがなかったんです。部活もずっと運動部で、選択科目も音楽。美術の授業でも与えられたものを描くのは苦手で、美大や美術の専門学校に行こうとか、考えたこともなかった。

――めちゃくちゃ意外です!絵は主に家で描いてたんですか?

そうですね。私、実は、妹が重度のダウン症で、言葉ではコミュニケーションが難しいんです。でも絵で描くとわかるから、私と弟がちっちゃい頃から絵を描いて伝えてました。遊びも、きょうだいでパズルをやるとか、積み木をやるとか、言葉がいらないものが中心。自然と、私も弟も絵を描くことが大好きになっていたんですよね。

――3きょうだいですか?

5人なんです。私が長女で弟が双子で、その下にダウン症の妹がいて、1番下に7つ離れた妹がいて。双子の兄のほうが絵が大好きで、双子の弟のほうや1番下の妹は、私たちが描いた絵を見て、ゲラゲラ笑って「描いて描いて」って言ってました。見てくれる人と描いてって言う人がいて、絵を描く環境は整ってたんですね。

――家族のコミュニケーションツールが絵だったんですね。遡ると、糸島で生まれて……。

あ、私、糸島で生まれてないんです。福岡で生まれて、中学校のときに糸島に引っ越してきて。高校まで糸島に住み、東京の短大に行きました。

――東京の短大は、何を勉強されたんですか? 

英語科でした。海外に行ってみたかったのと、糸島を飛び出したくて。当時は本当に田舎で何もないと思っていたし、都会にすごく憧れもあったから。

――なるほど。短大卒業後はどうされたんですか?

画家ではなくイラストの仕事に就きたいと思って、20歳ごろにイラストレーターや漫画家を目指してました。アルバイトしながらですけど、出版社に持ち込みして作品を見てもらったりしていて。

――すごい。

担当さんに「絵はいいけど、話は面白くない」みたいなこと言われながらも頑張ってたんですけど、3年ぐらいで、「自分が表現したいものは漫画でなくてもいいのかもしれない」と思ったんです。それは、さっきお話しした弟が漫画家としてデビューしたことがきっかけなんですけど。

――弟さんも漫画家に!?

弟は漫画雑誌を発売直後に読むためにコンビニでバイトするぐらい、漫画を読むのも描くのもとにかく好きで。福岡から応募した漫画が賞をとって、上京することになったんです。その頃、私も行き詰まってて、「弟みたいな人が漫画家になるのが絶対正解だ」って思って、「私、福岡に帰るから」って、バトンタッチしました。

福祉施設で孤軍奮闘した10年

――そこでいったん絵を仕事にするのを諦めて、福祉関係のお仕事に?

東京から帰ってきて、まず近くの明太子屋さんでアルバイトを始めたんですけど、妹と数年一緒に生活してなかったから会話ができなくなってて。それで、妹の通ってた福祉施設にボランティアで通い始めたら、「資格がなくてもいいから、スタッフになってほしい」と誘われて、そこで働き始めたんです。そしたら、今、駄菓子屋さんをやってる所……

――「トムソー屋」! (※糸島の中心地・筑前前原にある駄菓子屋)

そこに小さな福祉作業所ができて、軽度の知的障がい者の方5人が入ることになって、「その5人にお菓子づくりを教えてほしい」って言われて。製菓専門学校に行ってた妹のお友達に、まず私が基本のパウンドケーキをみっちり教えてもらいました。それを1年かけて5人に教えて。

――昔からお菓子に縁のある場所だったんですね…1年っていうのは、何を教えるのに時間をかけるんですか?

まず身だしなみ、挨拶、掃除を教えるのに半年ぐらいかけました。利用者のみなさんはそれまで社会と接する機会が少なくて学ぶことができなかったので、みんな「自分たちもお仕事をもらえるんだ」ってすごく感動して、一生懸命覚えるんですよね。私も髪の毛が入らないように、卵の殻が入らないように、何度もやり直して、本当に必死に教えて。

――基本を徹底的にやるんですね。

支えになったのは前原小学校の子供たちで、人権学習で知り合った子供たちが毎日のようにお手伝いに来てくれました。

――そんなつながりがあったんですね。その施設は今どうなってるんですか?

1年半ぐらい経ったときに法律が変わり、小規模の事業所が運営できなくなったんです。その頃「伊都菜彩」(※糸島最大の直売所)ができて、そこにお菓子を卸せる話も出たので、量産できるように大きな施設に統合し、移転しました。カフェの併設も始めて、今はカフェとお菓子作りをされています。私もそこで10年、支援員として働かせていただきました。

――10年って、すごいですね。

夢中だったんですね。糸島って福祉が遅れてて、特別支援学校もないんです。けど、人と人とのつながりが近いのと、お互いさまの精神があって、学校がなくてもクラスで助け合ったりしてるから、いらなかったのかもしれないんですよね(※特別支援学校は現在建設中)。

――障がいのある人もない人もみんな一緒に勉強して、みたいな。 

そうそう。私が10年必死に駆け抜けられたのって、糸島の人と自然のおかげなんですよね。利用者さんのご家族はとても優しく、厳しくもあたたかかったです。私、何回も失敗したりしたけど、その度に救われることが多くて、何でだろうと思ったら、ご実家が農業をされている方が多いんですよね。

――なるほど。

自然って思い通りにいかないじゃないですか。だから、わかってるんですよね。「思いどおりにいかないことに抗ってもどうにもならない。受け入れて、前を向くにはどうしたらいいか」って。そうやって必死でやってるなか、利用者さんを送迎する車を運転してたら、ある日突然、糸島の景色が飛び込んできたんです。「美しいな」「これを描きたいな」って。

初めて糸島の風景を描いたとき、涙が

――そこで糸島の風景を描くことにつながるんですね。景色はいつも見てたんですか?

いや、いつもは無事故で毎日終わることばっかり考えてて、全然景色を見る余裕がなかったです。当たり前の景色だと思ってたんですけど、それが変わる大きなきっかけがあって。2014年に福岡市の博物館であった『光の賛歌 印象派展』っていう、世界7か国の美術館から印象派の名画がやって来る展覧会で、友達や親や妹を誘って全部で6回ぐらい見に行ったんですよ。

――6回も!よっぽど感動したんですね。

本当によかったんです。6回目でふと「どっかで見たことある景色だな」って。あるモネの絵に「野北だ(※糸島の海沿いの地域)」と思ったの。その瞬間に、他の絵もどんどん普段の景色に見えてきたんですよ。一緒にいた妹に「恥ずかしいから、静かに絵を見て」とか言われるぐらい私が興奮して、「糸島もこんなふうに絵になるよ」って言ったんです。「描いたらこんなふうにね、きらきら輝くよ。私、描いてみる。そしたらみんな、絶対、糸島って美しいって確認できるよ」って。

――はー!

その後すぐ、近所の糸島高校美術部の子に、「キャンバスに油絵具で風景画を描いてみたいから、どこの油絵具がいいのか教えて」って聞いたら、「油絵は扱いにくいからアクリル絵の具から始めたほうがいいですよ」って言われて。私、アクリル絵の具でぶわって描いたときに、すっごい気持ちが満足したんです。

――それって記憶を頼りに描くんですか?

写真もあったけど、ほぼそのときの情熱ですよね。私、描いてて泣いちゃったんです。たぶん、仕事もすごいつらくて、「この仕事に終わりがない」って思ったんですよね。法律がどんどん変わってきて、事務に追われて、利用者のみんなと接したいのに接する時間が失われていって。もう私は絵を描いてないと続けられないと思って、上司に「絵を描きながらこの仕事を続けたい」って言ったら、「駄目です」って言われて。

――なんで駄目なんですか?

たぶん私がキャリア的に長かったから、後輩や新しい職員さんたちを育てていってほしかったんですよね。だけど私には、その選択肢はなかった。「じゃあ辞めます」って言って、とりあえず家でやっていこうと思って。そのときはたくさん描きたい気持ちが勝ってて、「3年やって、1枚も絵が売れなかったら、そんとき考えよう」みたいな。でも色んなことが不安で、何か月かでハローワーク行きたくなっちゃった(笑) 

――ははは(笑)

私の絵の原点は、その10年の福祉の世界で出会った、糸島の人たち。私が表現したいものって人の温かさと糸島の自然で、セットなんです。だから、自然を描いてるけど、そこに住む人たちの温かさもちゃんと伝わるようなものを描きたいなと思ってます。

――わかる気がします。優しい感じっていうか、温かさみたいなものは絵を見てて感じるんで、そういうのも込められてるんだなって。

ありがとうございます。「優しいね」と言われると、ちゃんと個性とか、今まで私が出会ってきた人たちのこととかが伝わってる気がして、すごくうれしいです。

可也山の絵で市長賞を受賞

――「3年やってみよう」って思って、その後、どういうふうに活動していったんですか?

一度、糸島郷土美術展っていうのが毎年開催されてるのを知って、見に行ったんですよ。そしたら、誰も糸島を描いてなかったんです。富士山や桜島はあるけど、「なんで可也山(※糸島富士とも呼ばれる糸島の山)がないんだろう」って思って、次の年の郷土美術展に可也山の絵を描いて出したんです。そしたら見事、市長賞に選ばれて。糸島を描いてる人は私だけだったから、市長も選ばないと仕方ないですよね(笑)

――それまで全然、糸島を描いてる画家さんはいなかったんですね。

やっぱり、みんな、フランスのセーヌ川やイタリアのベネチアを描いたりはしてたけど、糸島は当たり前過ぎてなかったのかもしれない。私は、時間が足りないぐらい絵にしたい所がいっぱいあって、みんなにも描いてほしいと思ってるくらい。

――みんなにも描いてほしいんですね(笑) 

最近、いろんな人が糸島を描いていることを知ったんです。写真でも見ますが、もっといろんな人が描いた糸島を見たいな、知りたいなと思います。

後編につづく
https://itofessional.com/2023/08/11/interview-9/

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